「んふふふ〜♪」
 姿見に映る自分を眺め、あやねは頬を緩めて笑みを零した。
「やっぱり、恋をする乙女は一味違うわね。ま、元々美少女だったワケだけど、今の私ってば更に磨きが掛かったって感じかしら?」
 いつぞやの栗拾いの時にあつらえた洋服に身を包み、腰に手を添え、少し顎を上げ。幾度とポーズを取って確認し、満足そうにあやねは頷いた。
「これなら、行人もきっと私の虜ね。そうなれば、私と行人様は晴れてり、り、両想いにな、なれる筈よっ」
 ぽぴ〜、と湯気が昇りそうな赤面に、「ふんっ」と気合いを入れ直すとあやねは部屋を後にした。
 以前の調子は大分戻ってきたが、それでも胸の高鳴りは簡単に抑えられそうにはなかった。
 それが少し厄介であり、「待ってなさいよ、行人様〜。ふふふっ」
嬉しくもあった。
「御免くださ〜い」
「――!?」
 玄関から聞こえてきた少年の声に、あやねの心臓が跳ねた。
「い、行人様っ!?」
「あ。あやね、こんにちは」
「ど、どうして行人様が?」
「ちづるさんから、豆大福を作ったから後ですずに持って行ってあげてって言われてね。ホラ、すずに教えちゃうと気が逸って仕事になんないでしょ?たがら、ちづるさんがボクに知らせてくれたんだ」
「まぁ、そうね。涎を垂らしながら仕事をされちゃ堪んないもの」
 悪戯っぽく笑う行人に釣られ、大の豆大福好きな幼馴染みを思い浮かべたあやねもつい破顔してしまった。
「分かったわ、行人様。多分、台所にあると思うから上がって頂戴。お茶くらいは飲んでいくでしょ?」
 仕様が無いと、甘いものに目が無い幼馴染みに半ば呆れながら、あやねは行人を招き入れた。
「あれ?そう言えばちづるさんやまちは居ないの?」
「えぇ、そうよ。お母様は今朝から婦人会で月見亭に行っちゃったみたいね。お姉様は何処かフラフラしてるみたいだけど、どうせお昼になってお腹が空けば帰って来るでしょ」
 そこ迄言って、あやねの背中にじわりと汗が滲み始めた。
 意中の少年と二人きりであると、あやねの頭が状況を認識し始めていた。
(……ち、好機なのかしら?これは……)
 やけに耳に響いてきた己の心臓の鼓動に狼狽えながらも、あやねは何とか平静を装った。
「そう言えば、あやね」
「ひゃい?な、なんれしょーか、行人しゃま……?」
 ギリギリと、硬くなった首を回し、呂律が怪しい事に気付かずにあやねが振り返った。
「今日は随分お洒落してるみたいだけど、何か出掛けたりする予定でもあるの?」
「え?え〜と、しょの……」
 「今日は行人様をでーとに誘うつもりだったのよ」そう言おうとするものの、頭に上った血が俄かに沸きだしたあやねには言葉にならない声を紡ぐ事しか出来ずにいた。
「そ、そんなんじゃないのよ。只、いつも同じ服だとつまんないから、いめーじちぇんじしてみただけよ」
「そうなんだ?」
「そ、そーよ。別に気合い入れてたりしてるワケじゃないんだから。変な勘違いしないでよね、行人様」
 きっぱりとそう言い切り、あやねは前を向いて廊下をずんずんと進み始めた。

(あ〜っ!!バカバカバカバカ、私のバカっ!!)
 胸の中で自分を詰るが、今更言い直す事も出来なくなった事態に、あやねは消沈の溜め息を吐いた。
 鈍感な行人には面と向かって伝えなければ通じないと解っているのに、動揺したあやねは心にも無い事を口走ってしまっていた。
(はぁ、どうして肝心な時に本当の事が言えないのかしら?こんなんじゃ、いつまで経っても行人様と恋人になれないじゃないのよ)
 後ろの行人に見えない様に、あやねは肩を下げて溜め息を吐いた。
 一方で、前を向いていたあやねの後ろで行人も遣る瀬の無い自虐の笑みを浮かべていた。
「いや、まぁ、ボクなんか意識されて無いのは解ってたんだけどね……。」
「……?何か言ったかしら?行人様?」
「ううん、何でも無いよ。只、そろそろ自分の自惚れって奴に嫌気がさしてきてね……。ハハハ……」
「?」
 行人の消え行く様な呟きにあやねが訊ねてみるが、以前にあやねの言葉を真に受けてしまっていた行人は虚しい心でそう返した。

「さ、行人様。これがお母様の豆大福よ」
 台所の飯台の上に用意してあった豆大福を包むと、あやねは行人に包みを手渡した。
「有難う、あやね。後、ちづるさんにもお礼を言っておいてくれるかな」
「ええ、帰って来たら伝えておくわ」
 茶を煎れると、あやねは残りの豆大福をお茶請けにして茶を啜り始めた。
「行人様も、冷めない内にどうぞ」
「あ、うん。それじゃ、戴くよ。――ちちっ!?」
「あ!?い、行人様、大丈夫!?」
「あ〜、少し舌を火傷しちゃったかな?」
 ザラつく舌の感触を確かめながら、行人が誤魔化の苦笑を浮かべた。
「ゴメンなさい、行人様……」
「こらこら、そんな顔しない。一気に飲もうとしたボクが足りなかっただけだから」
 少し冷ましてから出すべきであったと不束な自分を恥じるあやねに、行人が困った表情で頭を掻いた。
「ちょっと待ってて、行人様。確か火傷に効く薬草があったわ」
「え?でも、舌に塗るの?」
「大丈夫よ、食べても毒じゃないわ。少し苦いかもしれないケド」
「……あ、あやね。こんな火傷明日には治ってるから、気にしないで良いよ?」
「何言ってるのよ、行人様。ホラ、舌を出して」
 薬棚から膏薬を取り出し、人差し指に薬を付けたあやねが行人の前に座り込んだ。その有無を言わせない強い態度に、行人は渋々口を開いた。
「私の指を咥えたら、火傷した所で舐めてくれれば――……はっ!?」
 そこ迄言って、あやねはハタと気が付いた。
 自分は行人に何をさせようとしているのかと。
「あむ……」
「ひやぁん!?」
 行人に指を咥えられ、その感触にあやねの体が小さく跳ねた。
「だ、大丈夫よ行人様。少し驚いただけだから」
 思わず口を離そうとした行人に、あやねがいつも通りの口調で続きを促した。
「しょにょまま、わらひの指をにゃめ、にゃ、はぅあ〜っ!?」
 指先を擽られる感覚に、あやねが身悶えしながら仰け反った。
 しかし、恥ずかしさで目を瞑っていた行人は早く治療を終わらせる為に兎に角火傷を負った箇所を薬に押し付け、あやねの様子に気付かず言われた通りに指を舐めていた。
「ぶっ!?」
「あ、あやねっ!?」
 のぼせたのか、顔を真っ赤にしたあやねが目を回して崩れ落ちた。
「こ、これは刺激が強過ぎたわ……」
「あやね、ちょっと!?」
 薄れゆく意識の中、心配そうに自分を覗き込んでくる行人を眺めながら、あやねは羞恥と至福の入り混じった複雑な気持ちを味わっていた。

「う〜ん、参ったな。まさか、あやねがいきなり倒れちゃうなんて……」
 縁側であやねを風に涼ませながら、行人は額に冷水で絞った手拭いを置かれたあやねを見下ろした。
「ふへ、ふへへへ……」
「……一体、どんな夢見てんだか」
 緩んだ口の端から締まりの無い声を零すあやねに、行人は小さな笑みを浮かべた。だらしの無い無防備な寝顔で世辞にも淑やかとは言えないが、その方があやねらしいと行人はつい見入ってしまう。
 などど、行人が油断した瞬間。
「んげっ!?」
「ぶっ!?あ、あやねっ!?」
 寝返りを打ったあやねが、見事に縁側から落ちて鈍い音を立てた。
「痛たたたた……。あれ?私ったら、どうしたのかしら?」
 強烈な気付けの目覚めに周囲を見回し、打ち付けた額を擦っていたあやねは自分を見下ろす視線に気が付いた。
「大丈夫?あやね」
「い、行人様っ!?」
「ゴメン、あやね。ボクがうっかりしてて、あやねが寝返りをしたのを止められなかったんだ」
「へ、平気よこれくらい。大した事じゃないわ」
 何故か必死に無事を主張するあやねに、行人が肩を竦めながら呟いた。
「ほら、ちゃんと見せて」
「あ、ちょっと……」
 あやねを縁側に座らせると、行人があやねの額を覗き込んだ。
「あ〜、ちょっと赤くなってるね。でも、たんこぶとかは出来てないみたいだよ」
「あ……」
 どきりと、あやねの心臓が逸りだした。
 気付けば目の前に、行人の唇があった。
「ん?――って、あやね!?また顔が赤くなってきたけど、大丈夫なの!?」
「――っ!?」
 もう克服したと思っていた筈であったが、初めて行人と接吻した時の気持ちを忘れたワケでは無かった。
 味も感触も知っている行人の唇が、互いの息が掛かる位置に、接吻出来る位置にあった。
「ちょ、わ、ふえっ……!!」
「わわっ!?いきなりどうしたの、あやね!?」
 手足をバタつかせ、あやねは行人から仰け反った。そんなあやねに、行人が手を伸ばす。
 しかし、その手があやねに触れそうなって――、
「きゃっ!?どぇええっ――ぐぁっ!?」
「えぇえっ!?」
 再び縁側から転げ落ちたあやねは、今度は後頭部を強かに打ち付けてしまった。
「もう、さっきから変だよ?あやね。若しかして、何処か具合でも悪かったりするの?」
「べ、別に怪我とか病気とかそう言うのじゃないのよ」
「じゃあ何なのさ?」
「ち、知恵熱みたいなものかしら?」
「知恵熱?」
 あやねの言葉に、行人の首が傾いた。
 何か頭を使う様な遣り取りがあったのだろうかと行人は思案したが、思い当たる節は見つからない。
「兎に角、知恵熱だとしてもあやねは倒れたんだから、休んでた方が良いと思うよ」
 頭を切り替え、行人は尻餅を突いた儘のあやねに手を差し伸べた。
 その手を取ろうとして、あやねの手が止まる。上目遣いに、行人の顔を覗き見た。
「え、あ……。えっと、その……」
「いつまでも地面に座っとくワケにもいかないでしょ?ホ、ラ――っと……!!」
「え?ちょっと」
 行人に手を掴まれ、あやねは一気に引き上げられた。
「――ととっ!?」
「ふぶっ!?」
 行人は予想以上に軽かったあやねの重さに、そしてあやねは思った以上に強かった行人の力に。
 体勢を崩した二人はその儘縺れ合う様に畳の上に倒れ込んだ。
「痛ててて……。あやね、大丈夫?」
「えぇ、行人様が下になってくれたから。あ……」
 行人の胸に顎を乗せて、あやねは今の状況を改めて意識してしまった。
 手を掴まれ、咄嗟に庇われた拍子に体に回された行人の腕の中に居た。
 互いに密着している胸から感じる、呼吸に応じて上下する中に混じる鼓動はきっと行人のものだろう。
「えっと、その……」
 あやねが感じていた行人の鼓動が急に激しくなった。見れば、行人が目を逸らしながら顔を赤くしている。
 以前にも押し倒されて似た様な状況に陥ったのだが、行人には何故かあやねを振り払う事が出来なかった

「そろそろ、退いて貰えると助かるんだけど……?」
「……」
「あやね……?」
 熱っぽい潤んだ瞳が、行人をじっと覗き込んでいた。ふぅふぅと、あやねの息が行人の頬を撫でる。
 ぎゅうと、行人の手をあやねが握り返した。
 そして、握られた手に行人の意識が向いた瞬間、行人に目の前には瞳を閉じたあやねが迫ってきていた。
「――っ!?」
「ン……。行人様……」
 重なり合っていた口の端から漏れたあやねの吐息が、行人の名を紡いだ。
 それだけで、行人の背中がぞわりと粟立った。
「行人様ぁ」
 その儘あやねは行人の首に腕を回すと、グリグリと行人に頬擦りし始めた。
 柔らかくて、すべすべとした肌理の細かい肌。そして匂い立つあやねの甘い体臭が、行人の鼻腔に漂った。
 それだけで、行人は簡単にあやねの女の子に反応させられてしまう。
「あ、あああ、あやね?」
 肩を掴んで一旦引き剥がそうとするものの、それを拒む様にあやねはイヤイヤと首を振って更に行人に頬を押し付けた。
「絶対に、離さないんだから……!!」
「ちょっと、落ち着いてよ。あやね」
「嫌よ、行人様は私のものなんだから……!!」
「ちょっと、それは――……」
 咄嗟に出そうになった否定の言葉を、行人は喉元で飲み下した。
「ね?行人様、私のものになって……」
 それは何処までも高慢で、
「お願い……」
 消えそうなくらいに儚い願いだった。
「次の接吻を行人様が受け入れてくれたら、行人様は私のものになるんだから」
「えぇ?」
 焦る行人を他所に、宣告したあやねが静かに目を瞑った。そして、しっかりと狙い外さぬように両手で行人の頬を包み込んだ。
 ゆっくりと、しかし確実に迫るあやねとの口付けに行人が身動ぎをした。
「――っ!?」
 その瞬間、行人の頬に添えられていたあやねの手が僅かに跳ねて震え出した。
「……え?」
 傍から見れば、あやねの一方的な行為であろう。
 それでも行人には、この震える少女がどれ程の勇気を奮い、そして恐怖を抱いているのかを感じ取ってしまっていた。
 悪戯の絶えない娘であったが、決して悪い娘ではない。
 寧ろ、自分より弱い者や懐いている者には何処までも優しくなれる少し不器用な娘であった。
 ならば、少しだけ、自分だけでもこの娘に優しくする事くらいなら許されても良いかもしれない。
 善意とは異なる処から生まれてくる、優しく接したいと言う想い。
 切ない、生まれて初めて感じたその衝動に、行人は内心で半ば諦め気味に微笑んだ。
「あやね」
「……」
 鼻先が触れ合いそうな距離で名を呼ばれ、あやねが思わず身構えた。
「それ以上、顔は近付けなくて良いから」
「あ……」
 その言葉に、開かれたあやねの瞳からつぅ、と涙が頬を伝った。
「ごめんなさい、行人様。私ったら、――どえぇっ!?」
 手を放し、行人から離れようとしたあやねの体が前のめりに倒れ込んだ。
「はははは……。えっと、逃げないでね?」
「い、行人様!?」
 背中に感じた行人の力強さに、あやねは激しく狼狽えた。
 まさか、と思う一方で、もしや、と期待が膨らんでしまう。
「まさか、こんな日が来るなんて思いもしなかったよ」
「ちょっと、行人様?それってどう言う意味よ?」
 行人の物言いに反射的に睨み付けて、あやねはその儘目を見開いた。

唇に重なったその感触に、頭の中が真っ白になった。
「あ、あ、あ……?い、行人様……?」
「いや、うん……。まぁ、そう言う事になるのかな?」
 短くではあったけども、伝えるには十分な時間の繋がりであった。それだけで、あやねの血が一気に滾った。
「あう、あう、あう……。あふ……ん」
「あ、あやね?」
 目を回して、あやねは行人の胸に崩れ落ちた。
「うわっ!?ちょっと、またなの!?って言うか、さっきのもこれが原因だったんかい」
 漸く判明したあやねの失神に、行人が安堵と疲れた溜息を吐いた。そしてその儘、あやねの頭をくしゃりと撫でる。綺麗な見た目通り、心地の良い感触が伝わってくる髪だった。
「それにしても、こんなに純情だったんだ。あやねって」
 普段の大胆さとはかけ離れたギャップに、行人はつい苦笑を零した。
 もう少しこの幸せそうな寝顔を見ていようと、行人は暫くの間あやねを抱いて横になっていた。