ある屋敷の一室、鼻歌交じりに鏡のまえに座って、髪形を整えている少女がいた。
その少女はまず大きなリボンで後ろの髪を二か所でまとめたあと、片方の髪の一部を三つ編みにする。
そして、仕上げとして三つ編みに小さなリボンをつけ、何度かチェックすると「よしっ」と小さくガッツポーズ。
鏡の前から立ち上がると、机に近づいていく。
そこにおいてある卓上カレンダーを一枚めくり、赤丸がついている日にちを確認する。
赤丸の下には小さく『デート』と書いてあり、最後には小さくハートマーク。
それを見てにこにことしなら今月のページにもどした後、軽やかな足取りで部屋から出ていく。
そして廊下を進んでいき、ある部屋の前で立ち止まりドアをノックする。
「お兄ぃちゃ〜ん、朝だよ〜」
しかし、返事はない。しばらく待ってからもう一度ノックするがやはり、返事はない。
少女は少し不思議におもいつつも、
「入っちゃうよ〜」
と言いながら、ドアノブを回しドアを開けるが部屋には誰もいない。
「……あれ?」
部屋を見渡すと、いつも少しちらかっている部屋の中が整理されている。
そして机の上に一枚の紙。少女は嫌な予感がし、机に向って小走りで近づく。
それを手に取り見た瞬間、
   ピシリ
その少女の体は固まった。そして手からするりと落ちる紙。
ふわりふわりとゆっくりと落ちていき、絨毯のうえに音もなく着地する。
何か書かれているほうが上になっている。それを拾うこともせず、全く身動きしない少女。
それには
『しばらく家から出ます。捜さないでください。
P.S 美咲の誕生日には帰ると思うから  行人』
と書かれていた。数分呆然と立ち尽くす少女、あらため美咲。そして我に返る。
「な、なんですって――――!?」
その叫び声は屋敷中に響いていた。

所変わって、鹿児島から沖縄へ向かう船の中。その一室に一人の少年がいた。
彼の名は東方院行人、現在家出中の中学生。

行人は持ってきているものを全てベッドの上に出し、整理しながら防水加工の施されたリュックの中に収めていく。
食糧、携帯ゲーム機、数学の教科書、漫画、雑誌、沖縄のガイドマップ、そして数十日分の着替えなどなど。
着替えだけでもリュックに収まる量ではないはずなのに、ベッドの上のものが無くなってもまだリュックには余裕があった。
「じーさんに教えてもらった収納術ってすごいな。絶対全部は入らないって思ってたのに」
不思議そうにつぶやく。
この術を教えた行人の祖父は若い頃に山ごもりをし、その時にこの術を編みだしたという。
本人曰く、「詰め方にはコツがあるんじゃよ」とのこと。
どんなに容量オーバーに見えようが、楽々と収納してしまう。コツもへったくれもなかった。
余談であるが行人の祖父は後に、この収納術を世に広め莫大な利益を得ることになる。
もちろんそのようなことは知る由もない行人であった。

リュックを背負いデッキに向う行人。
行人はそれに全財産を詰め込んでいた。
そのため部屋に置いている間に何かあっても困るので、常に身につけることにしている。
階段をのぼるにつれて、潮の香りも段々と強くなっていく。そして、船外に出ると一面の大海原。
外はすっきり晴れて空には雲もほとんどなく潮風も穏やか。行人の気分も晴れやかだった。
海を眺めながら、人があまりいない船尾の方に向う。

時折すれ違う乗客とあいさつしつつ歩いていくと船尾についた。
辺りを見回したあと、手すりに寄りかかりながら船の後ろにできる波を眺める。
「前から旅をしてみたいと思ってたけどしてみるもんだな〜」
そのしみじみとした呟きは風に乗り、船の後ろへと流れていく。

しばらくぼーっと海を眺めていた行人だったが、顔を俯かせる。
「ふふふふふふ…」
行人は笑いが段々こみ上げてくるのを抑えようとする。
しかし抑えようと必死になり力をこめているため、体が少しずつ震えていく。
そしてその震えが限界に達した時
「ザマーミローくそ親父!!」
握りしめた両手を高く挙げながら、笑顔で叫ぶ行人。
受験勉強や稽古の疲れによるストレスで普段はやらないことを平然としてやってしまっている。
「今ボクは自由なんだな〜」
毎日剣術の稽古に明け暮れながら、勉強も両立してきた行人にとってこの家出は大きなものだった。
なぜならほとんど休む暇もなかったので、頭も体も疲れ切っていた。
そのため気分転換に、と家出をしてみることにした行人。
効果は絶大で、もう帰ってもいいかなぁ、などと思いはじめてる。
もっともすでに沖縄行きの船に乗ってしまっているため、すぐに帰ることはできない。
なので、行人は沖縄をある程度見たらさっさと帰る予定に変更し、とりあえず満喫することにした。

その頃船内でアナウンスが流れていた。
「イーストサイド観光からのお知らせです。
気象庁からこの海域の天候が悪化するおそれがあるとの通告がございました。
つきましては進路を大幅に変更をすることもございますので、極力船外には出ないようお願い申し上げます」
それを船外に出ていた行人が聞くことはなかった。

腕時計をちらっと見る。
その時計は普通の中学生がつけているようなものではなかった
それは十五歳の誕生日に美咲から贈られたものでかなり高価。防水加工が施してあり、衝撃にも強い。
なんと美咲が今まで貯めていた貯金のほとんどを使って購入したものである。
「絶対いつでも身に着けておいてよね」
行人の誕生日に、美咲はそう言いながら渡していた。
その時顔を真っ赤にして照れていたため、行人は風邪と思いすぐさま美咲を布団に寝かせ看病した。
なおこの一件により美咲の、行人に対する想いが強まってしまっているがそれはまた別の話。

ちなみに、現在の時刻は午前十時。
学校はすでに始まっている。つまり行人はさぼってしまっているわけである。
しかし、本人はそれほど気にはしていなかった。学校の成績はかなり上位であり勉学に問題はない。
すこしは内申に影響があるかもしれないが、そんなことはどうでもいいことだ、と行人はおもっていた。
それより行人が心配だったのは妹の美咲のことだった。
「手紙は置いてきたけど大丈夫かな〜。美咲も機嫌悪くなってなきゃいいんだけど」
昔から美咲は行人にほっとかれるとすぐに拗ねてしまっていた。
小学校低学年の頃、行人が一人で出かけて帰った時には、美咲が泣きながら屋敷中を捜しまわっていたこともあった。
「まあでも美咲も成長したから大丈夫だよね」
確かに二人とも中学生になり心も体も成長していた。主に行人だけが。

行人の予感は見事に悪い方だけが的中していた。

その頃、行人と美咲が通う中学校では、美咲が机に突っ伏していた。
あのあと父親が来て行人の家出を知ったが、気にもしない様子で美咲に、学校へ行くように言っただけだった。
それから一悶着あったものの、しぶしぶ学校に来たのだったが、一時間目からずっとこの調子だった。
美咲の周りには暗い空気が漂っている。それをみて心配になった教師は声をかける。
「東方院さん、大丈夫?」
しかし教師の呼びかけにも無反応。突っ伏したままみじろぎもしない。
「お兄ぃちゃん、どこいっちゃったのよ〜」
泣きながらほとんど聞きとれない声で呻く美咲。
「う〜〜」
さらに一段と落ち込む美咲だった。

美咲の幼馴染である同級生が心配しながらひそひそと話していた。
「また美咲ちゃんの悪い癖でてるわね」
「前は行人さんが小学校を卒業するときだったっけ。
その日一日中泣いてたもんね、お兄ちゃんと一緒じゃないからって」
呆れ顔で話す二人。二人とも普段から、行人に関する自慢話をさんざん聞かされていたのだった。

そんな二人にも気付かず、
「う〜〜、お兄ぃちゃん〜」
美咲はひたすら呻いている。
結局美咲は放課後までそのままだった。

ちょうど行人が美咲を心配し始めたころから天気が段々と悪くなっていた。
それまで晴れていた空にも雲が出てきて、風も強くなってきていた。そのせいか、波も少しずつ高くなっている。
行人が周りを見てみると、先ほどまでちらほらいた人もいなくなっていた。少し不安になってきた行人。
手すりから離れ船の中に戻ろうとしたとき、一際大きな波が船にぶつかる。
「へ?」
手すりに背を向けた行人。揺れる船。逆さまの風景。落ちていることに気付いた行人は叫び、
「うわ〜〜〜〜〜〜っ!!」
ドポン!と音を立てながら海に落ちた。結構な高さから落ちたため、少したってから浮かんでくる行人。
「ぷはっ!?な、なんだ!?」
開けたままの口にはいってきた水を吐き出し、状況を確かめる。
行人は軽いパニックにおちいっていたが、すぐさま冷静になり助かる方法を考えていた。
誰かに助けてもらう、これが一番確実。
しかし船尾には人がいなかった。まず目撃者がいないと、助けてもらえるわけがない。
次に、船まで泳いでいく、これはまず不可能。
行人が落ちたのは船尾からであり、船の速度を上回らなければならない。そんなことは人間では無理。
最後に、近くの島まで泳いでいく、可能性はあるもののほぼ不可能。
行人は頭に地図を思い浮かべたが、周りに島はなかったと記憶している。
もしあったとしても、無人島だった場合では助けを呼ぶにも呼べない。
つまり、行人が助かる確率は奇跡がおこらないかぎりほぼ0%に近かった。

行人がそんなことを考えている間にも、どんどん天気は荒れてきて、雨まで降ってきた。
その時、落ちてくる浮き輪。
「大丈夫か―――――――っ!!」
それは何かが海に落ちる音を聞いて、駆けつけてきた船員が投げ込んだものだった。
行人はすぐさまそれに捕まる。そして、体を休めているときに絶望的な言葉が聞こえた。
いつのまにか、もう一人の船員が駆けつけていて二人で話している。

「もう助けに行くのは無理だ。ボートで助けにいってもう間にあわない。私たちまで流されてしまうぞ」
「そんな……じゃあ、あの少年はどうするんです!?」
「どうしようもない……………」
行人が聞こえたのはそこまでだった。それは雨と風で声が聞こえなくなってしまったからである。
最も確実だと思われていた望みが断たれてしまった。
絶望してしまう行人。
そして雨で視界は見えづらくなっていき、行人を残して船も段々と遠ざかってしまっていった。

諦めそうになった行人だったが僅かながら可能性のある、どこかの島に流れ着くことに最後の希望をかけていた。
それから行人は五日間、漂流しつづけている。いまもなお嵐の中である。
その間、リュックに入っていた食糧と、雨水を溜めたペットボトルでどうにか生きのびていた。
しかし、もう食料は底をついてしまい、水だけが頼りだった。
しかも長時間水の中にいるため体力は消耗してしまい、すっかり痩せてしまっている。
「絶対諦めるもんか……」
だが行人は全く諦めていなかった。
漂流している間、この家出をするきっかけともなった『無理』という言葉が何度も頭の中をよぎっていた。
それは行人に何度も力を与えた。絶対に無理じゃない。
そう言いきかせながらひたすら船や陸を探し続けていた。

そんな時、遠くの方にかすかに見える一隻のボート。
行人は力を振り絞り大声をだす。
「お〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!」
叫びながら、ボートに向かって泳いでいく。
しかし、距離は一向に近づかなかった。
それでもなお近づこうとする行人の耳に声が届く。
「……と…の………ょ………!!」
「……くぁ………!!」

ボートの上の人影は行人の方を向いてはいなかった。
海に投げ出されてしまった人を助けるのに夢中で、行人には全く気付いていない。
それでも、行人は叫び続ける。
その時。

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ

後ろをふりかえり、行人は驚く。
それは今まさに高波が襲ってこようとしているところだった。
行人はとっさに目をつむり鼻を押さえ衝撃に耐えようとする。
そして今にも飲み込まれそうになる時。

「ひゃゃや〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!」
「くぁ――――――――――――!!」

ボートからの叫び声。
そして衝撃。
行人は身じろぎせずに流れに身を任せる。

そして、海の中へとひきずりこまれていく。
行人は沈んでいく最中にうっすらと目を開ける。
そこには動く大きな影。そして光る二つの円。
(これは……?)
そう思いながら気を失う行人。

影はそれをじっと見つめていた。

太陽が燦々と照っている。そして、その光を反射する砂浜。
何度も何度も打ち寄せてはひいていく波。砂浜にはいろいろなものが漂着していた。
ながれついた行人。全く動く気配はなかった。しかし胸は上下している。
気を失っているだけだった。

砂浜のすぐ近くには鬱蒼と茂った森がある。
そこから時折、動物の鳴き声が聞こえてくる。
「…………ん……ここ…は……?」
行人はその声で目が覚める。ゆっくりと体を持ち上げると、体は悲鳴をあげた。
「っつ!」
顔をしかめながら行人はとっさに痛む箇所を押さえる。手を見ても血はついていなかった。
背中に背負ったリュックを砂浜におろしたあとに、行人は体を一通り調べて目立った外傷がないことを確認する。
しかし、行人は念には念を入れて、もう一度痛む箇所を重点的に調べた。
幸運なことに、打ち身以外にはとくにひどい怪我はないようだった。

行人は辺りを見回すが、砂浜にも森の中にも人影などはない。
「助かった、かな?」
行人はほっとしながら立ち上がる。そして海を見ながら、しばらく考えていた。
(助かったことは助かったんだろうけど、ここはどこなんだろう?
人がいるならいいけどいなかったらどうしようか?
この砂浜に木やらなんやらでSOSの文字でも作ってみようか?)
突然森の方からがさがさという音。森の方を注意しながら身構えていると、なにか影が見える。
行人はそれをじっと見据えていると、だんだんと近づいてきているのか、姿がはっきり見えてくる。

「なんだ起きたのか?」
「……へ?」

そこには一匹の河童が手に奇妙な植物を持ちながら立っていた。